長嶋茂雄も憧れたカリスマ性

かつて、黄金期のアメリカにおける象徴的存在として国際的にも知名度が高く、世界的なベストセラー小説や大ヒット曲に自身の名が登場するほどのスーパースターと呼ぶに相応しく、生まれて一度も予約をしないで飛行機やレストランを利用した「真の成功者」がメジャーにいた。

ジョー・ディマジオは1936年にヤンキースに入団する。前年に引退した「野球の神様」ベーブ・ルースの後継者という重圧がありながらも新人離れした大活躍を見せ、翌年には早くもMVPを獲得する。右打者に不利なヤンキースタジアムを本拠地にしながらもホームラン300本以上の長打力と滅多に三振をしない確実性を併せ持ち、41年にはメジャー記録の56試合連続安打を記録する。58試合目から17試合連続安打を放っていたため、57試合目で途切れなければ、あわや74試合連続安打という途方もない大記録を作り出すことになっていた。

内向的な性格で、チーム内では孤立していたが、長い脚でグラウンドを駆け回り、難しい打球を簡単に処理するプレースタイルはとても優雅であり、ファンやメディアには紳士的に対応する姿は「野球選手の鏡」といわれ、長嶋茂雄も憧れたカリスマ性の持ち主である。

全盛期が第二次世界大戦と重なった為、実働13年間という長くはないメジャー生活でありながら、引退後も名門ヤンキースで大きな影響力を持つ。

そんなディマジオを語るうえで欠かせない存在が大女優のマリリン・モンローである。現役引退後に売り出し中の彼女に出会うとお互いの職業に無知だったこともあり、意気投合し結婚。新婚旅行先は日本だった。

しかし2人の人生はここから大きく崩されていく。

日米野球での来日したこともあるため、ディマジオはいつも通りに記者を待ち構えていると、記者は彼そっちのけでモンローばかりに注目する。ディマジオはプライドが傷つけられ、自由奔放なモンローとの間で喧嘩が絶えなくなり、9か月で離婚する。

モンローはその後も恋愛に失敗、マスコミからの攻撃を受け孤独に陥っていた。ディマジオはそんな彼女を献身的に支えて復縁を考えていたが、モンローは36歳の若さで謎の死を遂げた。

数少ない参列者として出席した葬儀で泣きながら「愛している」と声をかけ続け、赤いバラを彼女の墓に20年間送り続けていた。

ディマジオは1999年に肺がんで亡くなる。最期の言葉は「死んだら、マリリンのところへ行ける」だった。

「目を開いて、耳を澄ましていれば、口なんか開かなくてもいい」

メジャーリーガーの年間スケジュールは非常に過酷である。広いアメリカ本土を何度も往復することで時差がずれて、睡眠不足になるだけでなく、まともな食事を摂ることもできないため、体調管理が難しい。さらに夏場になると一日2試合のダブルヘッダーや2週間毎日試合が組み込まれるなど、日本では考えられない日程をこなす。

そのため、ほとんどのレギュラー選手が数試合休むようにしている。

カル・リプケン・ジュニアは、父がコーチを務めるボルチモア・オリオールズにサードとして入団する。1982年、アメリカンリーグ新人王を受賞したこの年の5月30日から不滅の大記録が始まる。

7月にはショートを守るようになる。

「守備の花形」といわれるショートは俊敏な動きを求められるため、小柄な選手が務めることが多い。ショートとして歴代最多の354本、通算で400本以上のホームランを放つ長打力を備えるリプケンは190センチを超える大柄な新しいショート像として、のちのスター選手、アレックス・ロドリゲスの憧れとなっていた。

一方で、守備は体格の疑問視を吹き飛ばすメジャー屈指の職人芸でゴールドグラブ賞を受賞している。この守備の高い評価により、打撃不振でも試合に起用されてきたのだ。

1995年9月6日、ファンが選ぶ「メジャーリーグ史上最も偉大な瞬間」として、鉄人ルー・ゲーリッグの記録を塗り替える2131連続試合出場を果たす。96年には日本記録も超えたため世界記録として更新を続けていくが、健在な打力とは対照的に守備が衰え始め、負担軽減のためサードに戻ることになる。

98年、「実力よりも記録を優先して出場している」という批判が高まり、9月20日に自ら出場辞退し、2632試合で記録が途切れた。

2001年に現役引退を表明。19年連続のオールスターゲームにサードとして出場すると、ショートを守るアレックス・ロドリゲスが歩み寄り、憧れのリプケンにポジションを交代しあう。試合ではホームランを放ち、史上最年長でオールスターMVPを受賞する。

引退試合は、敵地のニューヨークの予定だったが、アメリカ同時多発テロ事件により地元のボルチモアで迎えることになった。

引退後は野球発展に尽力する傍ら、慈善活動にも努める。その中には自身が塗り替えたゲーリッグを苦しめた筋萎縮性側索硬化症ルー・ゲーリッグ病)の研究費用の援助も行っている。

「目を開いて、耳を澄ましていれば、口なんか開かなくてもいい」

プロとして自分の仕事をこなしてきた彼の姿勢は球界の内外で尊敬を集め続けている。

なぜ野球選手になったのか?

東京・築地には築地市場築地本願寺など多くの名所があり、観光客もよく見られるが、もう一つ大きなスポットとして、「聖路加国際病院」という総合病院がある。

特徴の一つとして礼拝堂が設けられており、賛美歌が流れるなどキリスト教の文化を感じることができる。

これにより、築地周辺は戦時中の東京都心には珍しくアメリカ軍からの東京大空襲を免れているが、実はそれだけが理由になっているわけではない。

当時、この病院の屋上からは東京市街一円を見ることができ、アメリカ軍にとってはどうしても欲しい東京の地形を調べるための絶好の撮影スポットなのだった。

その頃の日本では、読売新聞が日米野球を開催するためアメリカからメジャーリーガーを招待する計画を立てていた。お目当ては「野球の神様」ベーブ・ルース。彼以外にも多くのスター選手が次々と参加していく中にモー・バーグもいた。

バーグはあまりにも地味な控え選手で、とても来日するに相応しいとは言えない。しかし、なんと彼の正体はユダヤ人の両親を持ち、プリンストン大学コロンビア大学を卒業、複数の言語に堪能で大量の新聞を読み漁るという「メジャーリーグ史上最も異色の経歴の持ち主」であったのだ。

日本でいえば東京大学京都大学を卒業してプロ野球選手になるということ。

そんな頭脳明晰な彼にアメリカ軍が目をつけた。

「試合にはほとんど出ずに都内の大学を巡回し、野球理論を指導する」という名目で来日し、そのついでに東京地形の撮影を依頼される。

1934年、11月29日に試合を欠場し、花束を持って聖路加病院に行き当時の駐日アメリカ大使の娘を見舞うと偽り、部屋を通り過ぎて階段で屋上へ上がるとそこに花束を置いて写真を収めた。その写真はアメリカ軍に利用されるまで本人は知らずに撮影していたという。

引退後は、戦略参謀局とその後身のCIAに所属するなど最後まで「異色の経歴をもつ男」であり続けた。

 

もうひとつのMVP

アメリカでは資産家ほど社会に奉仕すべきという考え方が常識になっている。野球界でも成績の優れた選手はMVPとして表彰されるが、もうひとつ優れた選手に贈られる賞がある。それは成績ではなく人格の優れた選手を称える栄誉だ。

1955年にパイレーツに入団したロベルト・クレメンテは悪球打ちでありながら、毎年のように高打率を残し続ける打撃センスと最大の魅力である強肩で12年連続のゴールドグラブ賞を受賞するなど攻守で優れたプレーヤーである。それでありながら正当な評価を得られず、ケガで試合を欠場すれば仮病と疑われるなど中南米選手として差別を受けていた。

そんな彼が最も輝いた試合が1967年のとあるレッズ戦。守備でホームランキャッチのファインプレー、打ってはホームラン3本を含む4安打でチーム全得点の7打点を記録する。それ以降、彼への評価は一転し、誰もが認めるパイレーツ史上最高の選手となる。しかし彼の素晴らしさはプレーだけでとどまらない。

球団は彼に敬意を表して様々な記念品を贈ろうとしたが、クレメンテは金銭を要求し、それを小児科への寄付にすることを希望した。優れた選手でありながら慈善活動にも積極的に取り組む姿勢こそ彼の本当の素晴らしさなのだ。

しかし、その積極性が悲劇に代わってしまう。

1972年に最終戦で3000本安打を達成するドラマチックな演出でシーズンを終える。12月23日に祝福のパーティーの開催するも、その日にニカラグア地震が発生、クレメンテもさっそく救援活動を行う。

救援物資を募り飛行機で輸送するとき、なんと現地の兵士が物資の盗難していることが発覚する。そこでクレメンテは「この私の前で盗む者はいないだろう」と言い、物資と同乗することを決めた。

31日、ジェット機よりもチャーター料の安いレシプロ機を使い、最大積載量を上回る物資と共にクレメンテも乗り込んだ。離陸すると直後にエンジンの調子がおかしくなり、操縦士が引き返すため急旋回したのちにカリブ海に墜落。機体の一部が見つかるもクレメンテの遺体は発見されず、死亡した。

事故後、彼の功績を称え、とある賞をコミッショナーが改称することを発表。MVPと匹敵する名誉ある賞で野球の内と外を問わず、たとえ人の目にはつかなくとも、深く世に尽くしているものに贈られる」としてロベルト・クレメンテ賞を制定した。

彼と同じ背番号21番を着けたがる中南米出身は多く、「カリブ球界最大の英雄」として今でもクレメンテは憧れの対象となっている。

 

 

 

違反投球

素晴らしい投手の条件の1つとして、変化球の精度が挙げられる。古くから使われるカーブ、無回転のナックル、落ちる魔球のフォークなど様々な変化球を駆使し、投球術の幅を広げることで投手は打者を抑えることができるのだ。

もちろん、それらは投手の才能と努力の賜物であり、時代が進むに連れてその技術も継承され、さらに進化していく。

しかし、中には人間業ではありえないほどの変化球がある。

ゲイロード・ペリーは投手として45歳まで怪我とは無縁の選手生活を送り、史上初の両リーグでのサイ・ヤング賞を受賞した名投手である。そんな彼の武器は、打者の手元で急激に曲がり出す奇妙な変化球で、その正体は「スピットボール」と呼ばれる違反投球だ。細工としてはボールにワセリンやポマードをつけたり、紙やすりで擦るなどして指先とボールの感触をわずかに狂わし変化させるのだ。

現代でも極稀に使われる技法で首の後ろや防止のつばにワセリンをつけてバレないようにしている投手がいる。当然、これらはルールで禁止されていて、発覚すれば即刻退場となる。

チームメイトはスピットボールを証言するもペリー本人からは証拠が掴めず、長い現役生活の中で引退前年の一度しか退場処分になっておらず、それも「通常考えられない変化球」という曖昧な理由だった。

別の試合では、審判がペリーに詰め寄り、調べると手元から紙切れが出てくる。ようやく証拠が出たと思いきや紙には「こんなところに種は無い。まだまだ甘いね」と書かれていたという。

1970年には来日し、オープン戦でスピットボールの投げた跡が見つかったが審判は気付かずに感激したという。

引退後、彼は自伝で「ボールに歯磨き粉を着けていた」などとスピットボールの使用を告白し、反省したかと思ったら、違反投球で使用したワセリンを販売する会社を立ち上げている。

そんな彼だがバッティングは苦手で1963年に「俺がホームランを打つ前に人類は月に行くだろう」と語る。そして1969年にアポロ11号が月面着陸した直後に初ホームランを打っている。

 

 

球界最悪の事故

とある野球アニメで、デッドボールを受けて打者が翌日に死亡するという印象的なシーンがある。もちろん、野球のボールはとても硬く、当たってしまえば大ケガを負うことは現実でも多々あるが、死亡事故は滅多に起きない。

レイ・チャップマンはインディアンスのショートとして俊足、好打、好守を披露し影でチームを支える選手だった。また陽気な性格の持ち主で多くのスター選手や大物芸能人からも好かれていた。

1920年、打率3割を維持する活躍で迎えた8月16日のヤンキース戦。相手の投手は危険な投球で知られる、カール・メイズだった。5回表、先頭打者として出塁したいチャップマンはいつものように前傾姿勢で構えた。そしてメイズが投じた内角高めのボールが、チャップマンの左のこめかみ部分を直撃し、地面に倒れた。衝撃音は「ドスン」という音がライトを守っていたベーブ・ルースのところまで聞こえるほどだったという。一時は、意識を取り戻して「私は大丈夫だ。メイズには心配するなと伝えてくれ」と言い、病院へ搬送される。試合後に駆け付けた選手たちは呼吸、脈拍が改善したことを聞いて病院から去るが、それが最後だった。

デッドボールを受けてから12時間が経過した頃、チャップマンは亡くなった。29歳の若すぎる死。さらに残された妻は妊娠していた。この死をきっかけにヘルメットの着用が義務付けられ、ボールも汚れたらすぐに交換するようになる。

この年のインディアンスはプロスポーツ界として初めて、喪章を付けてプレーするなど結束して球団初のワールドチャンピオンに輝くいた。優勝が決まると多くの選手がクラブハウスで涙を流した。

 

人種の壁

メジャーリーグには年に一日だけすべての選手はもちろん監督、コーチ、さらに審判までも同じ番号をつける日がある。その日はジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューした4月15日である。なぜ一選手のデビューした日がそこまで特別なのか。それは彼が黒人選手として初めてのメジャーリーガーだからだ。

大学時代にあらゆるスポーツで優秀な成績を収めた彼は黒人専用の野球リーグに所属した。1945年に戦力補強を求めていたブランチ・リッキーが会長を務めるブルックリン・ドジャースが興味を示し、契約を結ぶ。しかし、当時のメジャーリーグは白人だけがプレーできる環境であり、またアメリカ社会も黒人への差別が日常茶飯事だった。

そんな状況でも彼なら乗り越えられると思ったエピソードがある。ロビンソンは軍隊時代にバス内で白人兵士から後部座席に移動するように強要されたが、断固拒否したのだ。この強い精神力なら野次や差別に耐えられ、報復することもないとリッキーが判断した。

契約時にリッキーは「君はこれまでだれもやっていない困難な戦いを始める。その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであり、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つんだ」と言い、ロビンソンの右頬を殴った。すると彼は「頬はもう一つあります」と答えた。

言葉通り、困難はやってきた。まずはチームメイトから嫌われ、一緒にプレーすること拒む選手やトレード移籍を志願する選手も出てきた。さらにドジャース以外の全球団から試合を拒否され、とうとうドジャースのファンからも野次を受けた。そんな仕打ちを受けながらも彼は紳士的に振る舞い続けた。その行動が次第に理解されはじめ、コミッショナーナショナルリーグ会長から支持を受ける。そして監督は「優秀であれば肌の色は関係ない、もし自分に反対するならばチームを出ていけ」と語り、ロビンソンは味方を増やしていった。

1947年4月15日、ついにロビンソンがメジャーデビューを果たす。球場には26000人以上の観客が訪れ、そのうち半数以上がロビンソンを見ようとする黒人だった。シーズンが終わってみればルーキーでありながら、好成績を残して優勝に貢献し、メジャーリーグ史上初の新人王に選ばれた。

翌年にはストライクの判定をめぐって審判を警告後も抗議し、退場処分となる。しかし彼は「黒人という理由で退場されなかったため嬉しかった」という。

10年間のメジャー生活でMVPやオールスター出場などの功績は多くの黒人メジャーリーガーの輩出に貢献し、野球だけでなくスポーツ界全体の向上につながった。

引退後は公民権運動に参加、黒人の地位向上に最後まで尽力した。

デビュー50周年の1997年には彼の着けていた背番号「42」がメジャー全球団共通の永久欠番に認定される。そのため来日する黒人選手の多くは憧れの42番を着けることが多い。その後4月15日を「ジャッキー・ロビンソンデー」と扱うことになる。

彼でなければ、黒人だけでなく日本人さえもメジャーに行けなかったかもしれない。