人種の壁
メジャーリーグには年に一日だけすべての選手はもちろん監督、コーチ、さらに審判までも同じ番号をつける日がある。その日はジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューした4月15日である。なぜ一選手のデビューした日がそこまで特別なのか。それは彼が黒人選手として初めてのメジャーリーガーだからだ。
大学時代にあらゆるスポーツで優秀な成績を収めた彼は黒人専用の野球リーグに所属した。1945年に戦力補強を求めていたブランチ・リッキーが会長を務めるブルックリン・ドジャースが興味を示し、契約を結ぶ。しかし、当時のメジャーリーグは白人だけがプレーできる環境であり、またアメリカ社会も黒人への差別が日常茶飯事だった。
そんな状況でも彼なら乗り越えられると思ったエピソードがある。ロビンソンは軍隊時代にバス内で白人兵士から後部座席に移動するように強要されたが、断固拒否したのだ。この強い精神力なら野次や差別に耐えられ、報復することもないとリッキーが判断した。
契約時にリッキーは「君はこれまでだれもやっていない困難な戦いを始める。その戦いに勝つには、君は偉大なプレーヤーであり、立派な紳士でなければならない。仕返しをしない勇気を持つんだ」と言い、ロビンソンの右頬を殴った。すると彼は「頬はもう一つあります」と答えた。
言葉通り、困難はやってきた。まずはチームメイトから嫌われ、一緒にプレーすること拒む選手やトレード移籍を志願する選手も出てきた。さらにドジャース以外の全球団から試合を拒否され、とうとうドジャースのファンからも野次を受けた。そんな仕打ちを受けながらも彼は紳士的に振る舞い続けた。その行動が次第に理解されはじめ、コミッショナーやナショナルリーグ会長から支持を受ける。そして監督は「優秀であれば肌の色は関係ない、もし自分に反対するならばチームを出ていけ」と語り、ロビンソンは味方を増やしていった。
1947年4月15日、ついにロビンソンがメジャーデビューを果たす。球場には26000人以上の観客が訪れ、そのうち半数以上がロビンソンを見ようとする黒人だった。シーズンが終わってみればルーキーでありながら、好成績を残して優勝に貢献し、メジャーリーグ史上初の新人王に選ばれた。
翌年にはストライクの判定をめぐって審判を警告後も抗議し、退場処分となる。しかし彼は「黒人という理由で退場されなかったため嬉しかった」という。
10年間のメジャー生活でMVPやオールスター出場などの功績は多くの黒人メジャーリーガーの輩出に貢献し、野球だけでなくスポーツ界全体の向上につながった。
引退後は公民権運動に参加、黒人の地位向上に最後まで尽力した。
デビュー50周年の1997年には彼の着けていた背番号「42」がメジャー全球団共通の永久欠番に認定される。そのため来日する黒人選手の多くは憧れの42番を着けることが多い。その後4月15日を「ジャッキー・ロビンソンデー」と扱うことになる。
彼でなければ、黒人だけでなく日本人さえもメジャーに行けなかったかもしれない。