「目を開いて、耳を澄ましていれば、口なんか開かなくてもいい」

メジャーリーガーの年間スケジュールは非常に過酷である。広いアメリカ本土を何度も往復することで時差がずれて、睡眠不足になるだけでなく、まともな食事を摂ることもできないため、体調管理が難しい。さらに夏場になると一日2試合のダブルヘッダーや2週間毎日試合が組み込まれるなど、日本では考えられない日程をこなす。

そのため、ほとんどのレギュラー選手が数試合休むようにしている。

カル・リプケン・ジュニアは、父がコーチを務めるボルチモア・オリオールズにサードとして入団する。1982年、アメリカンリーグ新人王を受賞したこの年の5月30日から不滅の大記録が始まる。

7月にはショートを守るようになる。

「守備の花形」といわれるショートは俊敏な動きを求められるため、小柄な選手が務めることが多い。ショートとして歴代最多の354本、通算で400本以上のホームランを放つ長打力を備えるリプケンは190センチを超える大柄な新しいショート像として、のちのスター選手、アレックス・ロドリゲスの憧れとなっていた。

一方で、守備は体格の疑問視を吹き飛ばすメジャー屈指の職人芸でゴールドグラブ賞を受賞している。この守備の高い評価により、打撃不振でも試合に起用されてきたのだ。

1995年9月6日、ファンが選ぶ「メジャーリーグ史上最も偉大な瞬間」として、鉄人ルー・ゲーリッグの記録を塗り替える2131連続試合出場を果たす。96年には日本記録も超えたため世界記録として更新を続けていくが、健在な打力とは対照的に守備が衰え始め、負担軽減のためサードに戻ることになる。

98年、「実力よりも記録を優先して出場している」という批判が高まり、9月20日に自ら出場辞退し、2632試合で記録が途切れた。

2001年に現役引退を表明。19年連続のオールスターゲームにサードとして出場すると、ショートを守るアレックス・ロドリゲスが歩み寄り、憧れのリプケンにポジションを交代しあう。試合ではホームランを放ち、史上最年長でオールスターMVPを受賞する。

引退試合は、敵地のニューヨークの予定だったが、アメリカ同時多発テロ事件により地元のボルチモアで迎えることになった。

引退後は野球発展に尽力する傍ら、慈善活動にも努める。その中には自身が塗り替えたゲーリッグを苦しめた筋萎縮性側索硬化症ルー・ゲーリッグ病)の研究費用の援助も行っている。

「目を開いて、耳を澄ましていれば、口なんか開かなくてもいい」

プロとして自分の仕事をこなしてきた彼の姿勢は球界の内外で尊敬を集め続けている。