職人気質の功労者

日本球界には榎本喜八落合博満前田智徳というプロ野球を代表する「打撃の職人」たちが存在していた。彼らは自分のバッティングを常に探求していくことで周りを見ることができずに、無意識に敵を増やしてしまった。

テッド・ウィリアムズは1931年、レッドソックスに20歳でデビューを果たすと早くもメジャートップクラスの成績を収め、通算で2度の三冠王出塁率4割8分2厘のメジャー記録を持つ。

「史上最高の天才打者」として最も象徴的な1941年シーズンの最終日。当時23歳のウィリアムズは、ダブルヘッダーの2試合を残して打率が3割9分9厘5毛だった。公式記録では毛は四捨五入するため4割になっており、周囲は「最年少記録での4割」をキープするため試合を欠場することを勧める。しかしウィリアムズは四捨五入ではなく、あくまで実際に4割を記録することにこだわり試合に出場した。最初の打席で球審から「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」といわれ、落ち着きを取り戻すと、8打数6安打の固め打ちで打率4割6厘という文句なしの4割打者となった。

現時点で最後の4割打者である彼の打撃術を支えたのは歴代4位の四球数を生み出した選球眼と比類なき動体視力という才能である。

高速回転しているレコードのラベルを読み取るほどの動体視力は空軍時代にも発揮され、敵機を多数撃墜する優秀なパイロットとして活躍した。

さらに記憶力も優れており、毎試合すべての打席のコースや球種をノートにまとめて投手の癖や配球パターンを調べ上げることで狙い球を絞っていた。

ネクタイの着用を頑固に拒否するなど堅苦しいことを嫌っていたが、選手としてはプロ意識が非常に高く、夜遊びはもちろん、タバコも吸わずに夜10時には就寝という徹底した自己管理をしていた。

常にレベルの高い打撃を目指す向上心と自画自賛を欠かさない自負心を併せ持つメジャー屈指の職人気質だった。しかし、その職人気質が理由でファンやメディアとは友好的になれなかったことで、同世代のジョー・ディマジオのような人気は得られず、メディアからのMVP投票も3回ほど落選している。極めつけは引退試合でセレモニーも行わず、観客の声援に応える仕草も見せないまま、球場を去ったことで大批判を受けた。

5年間の兵役や優勝に恵まれなかった不運な野球人生ではあったが、後世の野球界に多大な影響を与えた。

自身の打撃術をまとめた著書「バッティングの科学」では多くの打者を手助けする理論で技術向上につなげ、左のプルヒッターという打撃スタイルで相手の内野手は右寄りに移動する守備陣形を考案、のちの「王シフト」の原型になった。また、自身は外角低めのバッティングが苦手と判明したことで投手は「外角低めが投球の基本」となっている。

加えて、白人でありながら黒人選手への待遇改善を強く訴え、自身の記録を追い抜こうとする黒人選手へ激励を送るなど技術面だけでなく人種問題での野球界の発展にも尽力していた。

2002年に死去。遺体の頭部は冷凍保存されている。