父からの限られた言葉

映像の少ない60年代以前の野球界には、信じ難いほどの記録や逸話が多く残っており、当人の声が貴重な証拠となる。

だからこそ、往年の名選手ほど長生きしてもらいたい。

ミッキー・マントルは1931年にセミプロ出身の炭鉱夫の息子として生まれる。

8歳で父から英才教育を受けると、当時メジャーでも珍しいスイッチヒッターを習得する。

高校時代、小柄な体格から火の出るような打球にスカウトが目をつけ、1951年にマイナーからヤンキースに昇格、兵役から帰還したジョー・ディマジオの後継者として期待を受ける。そんな彼のセールスポイントは一塁到達3.1秒の俊足だった。自分のプレースタイルはその足でセーフティバントをして出塁することだと決心する。

しかしマイナー時代、得意気にベンチへ戻ると当時の監督から「バントでヒットを稼がずにもっと大きな打球を見せてみろ」と叱責される。次世代のスーパースターとして大きな打者を目指してほしいという監督の思いに応えようとするもスランプに陥り、野球への情熱を失いかけた。

悩みを聞いてもらおうと父に電話をすると、父は田舎から駆け付けて、「根性が無いなら、オクラホマに帰れ。俺のように炭鉱でクタクタになるまで働け。2度と大金は稼げないが、それでもいいか」と迫り、ミッキーは野球を続ける決心をする。マイナーで結果を残すと、メジャーに再昇格。シーズンを通して成績を残し、優勝に貢献した。この年、父が39歳で他界する。

2年目以降は安定した成績を残し、5年目には自身初のホームラン王を獲得。6年目にはスイッチヒッター史上唯一の三冠王になる。

マントルの魅力といえば、球史に残る人間離れの飛距離である。

1953年に放った超特大の場外ホームランは171.8メートルに及び、球場から落下地点までを巻き尺で測定するほどの大ホームランを意味する「テープメジャーショット」の元祖となった。

さらに1960年にタイガー・スタジアムで放ったホームランは195メートルといわれ、1995年のギネスブックに「史上最長本塁打」に認定された。

50年代のヤンキース黄金期を主砲として支えてきたが、肉体の衰えに比例してヤンキースの低迷期を迎えることになり、1968年に引退。通算536本のホームランはスイッチヒッター史上最多である。

圧巻のパワーに注力したが、ケガに悩まされた野球人生であり、健康体であれば年間70本塁打も可能といわれた。また、ホームラン狙いの打撃に変えて以降、持ち味だった俊足には目をくれずにいたが、引退後には、もう少し盗塁にこだわってもよかったと悔やんでいた。

輝かしい実績の裏側で私生活では、祖父・父だけでなく息子も早くに亡くしている。その為、自身も長くないと思い飲酒に走った結果、肝臓がんを患い「私はいい手本だ。どうか私のようにはならないでほしい。」と言い残し、63歳で死去。

一番の思い出は、1956年の開幕戦で放った160メートルの大ホームランで、試合後に観戦に来ていたアイゼンハワー大統領から賛辞をもらった。マントルは「鉱山労働者の息子だった自分に、アメリカの大統領が握手をしてくれた」と大喜びで語った。

先の短い父からの限られた言葉を力に変えて掴んだ「アメリカンドリーム」だった。