「努力は必ず報われる、もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは言えない」

「努力は必ず報われる、もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは言えない」

この努力論はあの王貞治の言葉である。通算ホームラン数868本の世界記録をもち、国民栄誉賞の第一号となった彼のプロ野球人生は華やかに思われるが、その裏には壮絶な下積み時代があったことを忘れてはいけない。

早稲田実業高校時代に甲子園でノーヒットノーランを達成した投手として王は、1959年に巨人に入団する。しかし王の球はプロでは通用しないことを練習初日で通告され、次の日からは打者に専念することになる。

練習やオープン戦では新人離れしたパワーで成績を残すが公式戦では一転、プロの投手が本気になった球を捉えることができず、26打席連続ノーヒットというプロの洗礼を味わった。しかし、27打席目に初ヒットが生まれる、それがホームランだ。いかにもホームランバッターらしいエピソードだが、この年は期待されていた成績が残せず2年目、3年目と続いた。結果の出ない王はファンから「三振王」と罵声を浴びせられ、練習にも身が入らず、どん底に突き落とされた。

そして4年目を迎えた1962年、コーチとして荒川博が巨人にやってくる。なんと荒川は現役時代に当時中学生だった王に左打者を進言し、母校の早稲田実業への進学を薦めた恩人である。久しぶりの再会で王のバッティングをみた荒川は「ひどいスイングだがこの打ち方で2割7分を打てる素質は素晴らしい」と感じた。それから二人三脚で打撃改造に取り組むが練習に身が入らない王は試合でもうまくいかず、自信が持てない。

そんな中で王の悪い癖を治すため足を高く上げる一本足打法が生まれるがこの特徴的な打ち方は素振りのみで試合ではあくまでシンプルな打法を行うも結果は出なかったため、ダメもとで一本足打法を試した。すると運良くホームランを打ち、一本足打法への感覚が芽生えた。それからの王は心を入れ替え「荒川道場」と呼ばれる厳しい修行に取り組む。畳が擦り切れ、足から血が出たこともある素振りや集中力を高める練習に真剣を使うなどで見学に来た先輩たちが自然と正座してしまうほどだった。

その練習の成果は体の軸が全くブレないスイングをつくり、どんな球種をどこに投げても打たれると投手たちがお手上げ状態になった。13年連続を含める15度のホームラン王獲得は他の追随を許さない、まさに「王のためのタイトル」といえる。

「努力は必ず報われる、もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは言えない」

引退後は低迷していたホークスの監督になり、就任当初に生卵を投げつけられたときでもあきらめず、この姿勢を貫いてきたからこそ、ホークスを常勝軍団に育て上げられたのだろう。