昨年のプロ野球の話題といえば、巨人・坂本勇人の通算2000本安打だろう。史上最年少での達成を楽しみにしていたファンも多かったが、新型コロナウイルスによって日程が大きく変動したため、惜しくも2番目のスピード記録となった。

この2000本安打の最年少記録を持つのがはじめて「安打製造機」の異名をとった榎本喜八である。彼の野球選手としての成功を支えたのは、異常な努力と打撃理論である。

極貧生活の少年時代に野球場に行き、プレーの美しさを見てプロ野球選手になって家族を楽させることを目指した。早稲田実業に入学後、高校の先輩であり、すでにプロになっていた荒川博を訪ね、同じオリオンズへの入団を直談判した。すると荒川は「3年間登校前に500本の素振りしろ」とあしらったが、榎本は真に受けて素振りを敢行した。

同期のほとんどが退部していった猛練習に耐え2年生の春から4番打者を務める。早稲田の伝統である堅実な打撃スタイルに反して、榎本だけは思い切りのいいフルスイングを徹底した。「素振りをしないと眠れない」とまでいうほど努力を重ね3年の秋に荒川に土下座でプロ入りを志願し、無理矢理組み込まれた入団テストで監督から「高校生でありながら完成されたバッティングフォーム」と優れた選球眼が評価されて合格する。

プロ1年目から多くの高卒新人の歴代最高記録をつくる大活躍で新人王を獲得、翌年も期待通りの成績を残し順風満帆と思われたが、チャンスの場面になると「打てずにチームが負けたら自分のせいだ」、「打率3割を切ったら給料が下がり、家族が苦労する」などネガティブな思考を持つようになる。

5年目のオフに精神面強化のため合気道を練習に取り入れる。その甲斐あって安定した心と呼吸で落ち着いたバッティングができるようになる。それからの榎本は安定した好成績で安打を重ねていき、1968年に史上最年少の31歳7か月で通算2000本安打を達成する。

引退後はコーチとしてプロ野球界復帰を目指し体作りとして42キロのランニングを始めたが、現役復帰と誤解され声がかからなかった。その後は野球界との関わりを断っている。

天才と称される彼ではあるが、頑固な性格と独特の打撃論で多くの奇人伝説がある。

・1963年の数日間、心身ともにかつてない充実感で自分の体の動きが寸分の狂いもなく認識し、相手の配球が手に取るようにわかるという「神の域」を経験したという。

荒川博の自宅の庭で昼から素振りを始め、忘れていた荒川が深夜になって庭にいくと素振りを変わらず続けていた。

・バッティングフォームの調整方法では素振りをせず、鏡の前で30分構えるだけでバットを振らないまま試合に臨むことがある。

・監督の采配に不満が溜まり、猟銃を発砲し立てこもった。

天才ならではの感性とかなりの神経質で2000本だけでは物足りないとまでいわれた。おそらく彼は悲運の強打者なのではないだろうか。