サンフランシスコに愛された男
「シンプルでありたい」
最近は必要最低限のものだけで生活する「ミニマリスト」が増えている。彼らは必要なものや大切なものだけに囲まれた生活を送り、幸せを感じている。
ダニエル・ノリスは2011年にブルージェイズに入団する。28歳の現役ではあるが、成績は特に目立った活躍はなく、日本でも聞き馴染みのない選手だが、他の選手と対照的なのはそのライフスタイルだ。
野球選手の多くは一般家庭や貧しい家庭で育ち、プロ入りが決まると契約金が与えられ、一夜で大金を得ることがある。さらに試合ごとに活躍するとボーナス、結果が良ければ年俸アップなど選手にとってはモチベーションが上がる重要な事項である。
その一方で、激変した生活環境や周囲の人間関係で理性が乱れることも多く、金銭トラブルや薬物問題などで人生を棒に振る者もいる。
ノリスは、入団時に球団から2億円以上の契約金を得るが、散財することなく普段通りの生活を心掛けた。毎月8万円ほどの生活費で暮らす彼のモットーは「シンプルでありたい」として家を持たずに大きめの車を購入し、生活用品を詰め込んで車中泊生活を始める。
「危険な冒険」を避けるため、車の燃料は満タンにせず、「素敵な場所」を通り過ごさないように落ち着いた安全運転を行うことで「焦らないメンタル」を維持している。そのため、趣味のサーフィンで寝落ちしてしまい、沖が見えなくなるほど遠く離れた場所に流れ着いた時でさえ、「人生で最高の瞬間」と感じ、楽しんでいたという。
シーズン中は球場付近の駐車場、オフになると山で生活をする彼のライフスタイルはかなり異質だが、静かな場所で一人の時間を過ごす生活は一度は憧れる「男のロマン」ともいえるだろう。
「夕日を見ながら暖かい食事を楽しむことが一番の贅沢」ということを知る彼の今後の活躍を期待したい。
職人気質の功労者
日本球界には榎本喜八、落合博満、前田智徳というプロ野球を代表する「打撃の職人」たちが存在していた。彼らは自分のバッティングを常に探求していくことで周りを見ることができずに、無意識に敵を増やしてしまった。
テッド・ウィリアムズは1931年、レッドソックスに20歳でデビューを果たすと早くもメジャートップクラスの成績を収め、通算で2度の三冠王や出塁率4割8分2厘のメジャー記録を持つ。
「史上最高の天才打者」として最も象徴的な1941年シーズンの最終日。当時23歳のウィリアムズは、ダブルヘッダーの2試合を残して打率が3割9分9厘5毛だった。公式記録では毛は四捨五入するため4割になっており、周囲は「最年少記録での4割」をキープするため試合を欠場することを勧める。しかしウィリアムズは四捨五入ではなく、あくまで実際に4割を記録することにこだわり試合に出場した。最初の打席で球審から「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」といわれ、落ち着きを取り戻すと、8打数6安打の固め打ちで打率4割6厘という文句なしの4割打者となった。
現時点で最後の4割打者である彼の打撃術を支えたのは歴代4位の四球数を生み出した選球眼と比類なき動体視力という才能である。
高速回転しているレコードのラベルを読み取るほどの動体視力は空軍時代にも発揮され、敵機を多数撃墜する優秀なパイロットとして活躍した。
さらに記憶力も優れており、毎試合すべての打席のコースや球種をノートにまとめて投手の癖や配球パターンを調べ上げることで狙い球を絞っていた。
ネクタイの着用を頑固に拒否するなど堅苦しいことを嫌っていたが、選手としてはプロ意識が非常に高く、夜遊びはもちろん、タバコも吸わずに夜10時には就寝という徹底した自己管理をしていた。
常にレベルの高い打撃を目指す向上心と自画自賛を欠かさない自負心を併せ持つメジャー屈指の職人気質だった。しかし、その職人気質が理由でファンやメディアとは友好的になれなかったことで、同世代のジョー・ディマジオのような人気は得られず、メディアからのMVP投票も3回ほど落選している。極めつけは引退試合でセレモニーも行わず、観客の声援に応える仕草も見せないまま、球場を去ったことで大批判を受けた。
5年間の兵役や優勝に恵まれなかった不運な野球人生ではあったが、後世の野球界に多大な影響を与えた。
自身の打撃術をまとめた著書「バッティングの科学」では多くの打者を手助けする理論で技術向上につなげ、左のプルヒッターという打撃スタイルで相手の内野手は右寄りに移動する守備陣形を考案、のちの「王シフト」の原型になった。また、自身は外角低めのバッティングが苦手と判明したことで投手は「外角低めが投球の基本」となっている。
加えて、白人でありながら黒人選手への待遇改善を強く訴え、自身の記録を追い抜こうとする黒人選手へ激励を送るなど技術面だけでなく人種問題での野球界の発展にも尽力していた。
2002年に死去。遺体の頭部は冷凍保存されている。
父からの限られた言葉
映像の少ない60年代以前の野球界には、信じ難いほどの記録や逸話が多く残っており、当人の声が貴重な証拠となる。
だからこそ、往年の名選手ほど長生きしてもらいたい。
ミッキー・マントルは1931年にセミプロ出身の炭鉱夫の息子として生まれる。
8歳で父から英才教育を受けると、当時メジャーでも珍しいスイッチヒッターを習得する。
高校時代、小柄な体格から火の出るような打球にスカウトが目をつけ、1951年にマイナーからヤンキースに昇格、兵役から帰還したジョー・ディマジオの後継者として期待を受ける。そんな彼のセールスポイントは一塁到達3.1秒の俊足だった。自分のプレースタイルはその足でセーフティバントをして出塁することだと決心する。
しかしマイナー時代、得意気にベンチへ戻ると当時の監督から「バントでヒットを稼がずにもっと大きな打球を見せてみろ」と叱責される。次世代のスーパースターとして大きな打者を目指してほしいという監督の思いに応えようとするもスランプに陥り、野球への情熱を失いかけた。
悩みを聞いてもらおうと父に電話をすると、父は田舎から駆け付けて、「根性が無いなら、オクラホマに帰れ。俺のように炭鉱でクタクタになるまで働け。2度と大金は稼げないが、それでもいいか」と迫り、ミッキーは野球を続ける決心をする。マイナーで結果を残すと、メジャーに再昇格。シーズンを通して成績を残し、優勝に貢献した。この年、父が39歳で他界する。
2年目以降は安定した成績を残し、5年目には自身初のホームラン王を獲得。6年目にはスイッチヒッター史上唯一の三冠王になる。
マントルの魅力といえば、球史に残る人間離れの飛距離である。
1953年に放った超特大の場外ホームランは171.8メートルに及び、球場から落下地点までを巻き尺で測定するほどの大ホームランを意味する「テープメジャーショット」の元祖となった。
さらに1960年にタイガー・スタジアムで放ったホームランは195メートルといわれ、1995年のギネスブックに「史上最長本塁打」に認定された。
50年代のヤンキース黄金期を主砲として支えてきたが、肉体の衰えに比例してヤンキースの低迷期を迎えることになり、1968年に引退。通算536本のホームランはスイッチヒッター史上最多である。
圧巻のパワーに注力したが、ケガに悩まされた野球人生であり、健康体であれば年間70本塁打も可能といわれた。また、ホームラン狙いの打撃に変えて以降、持ち味だった俊足には目をくれずにいたが、引退後には、もう少し盗塁にこだわってもよかったと悔やんでいた。
輝かしい実績の裏側で私生活では、祖父・父だけでなく息子も早くに亡くしている。その為、自身も長くないと思い飲酒に走った結果、肝臓がんを患い「私はいい手本だ。どうか私のようにはならないでほしい。」と言い残し、63歳で死去。
一番の思い出は、1956年の開幕戦で放った160メートルの大ホームランで、試合後に観戦に来ていたアイゼンハワー大統領から賛辞をもらった。マントルは「鉱山労働者の息子だった自分に、アメリカの大統領が握手をしてくれた」と大喜びで語った。
先の短い父からの限られた言葉を力に変えて掴んだ「アメリカンドリーム」だった。
一日だけの全盛期
投手には失点はもちろん安打も与えない「ノーヒットノーラン」という偉業があり、達成すると多くの賞賛を浴びるが、それ以上の大偉業が「完全試合」である。失点、安打に加えて四死球や味方のエラーも許されないため、回を重ねるごとにグラウンド内のすべてが緊張感に包まれる。150年以上のメジャーリーグの歴史で完全試合の達成はわずか23回のみ。滅多に見れない大記録である。
技術はもちろんだが、幸運も必要なため名投手といえど達成できることではない。
そんな大記録をワールドシリーズでやってのけた、ただ一人のピッチャーがいる。
ドン・ラーセンは1953年にセントルイス・ブラウンズに入団するが、夜遊びが多く、成績を挙げられずにいた。54年には3勝21敗という散々な成績ではあったものの3勝のうち2勝はヤンキース戦での勝利だったため、17人が関与した超大型トレードの一員としてヤンキースに移籍する。
当時のヤンキースは30年間で16度の優勝歴を誇り、ワールドシリーズに出ることは義務とまでいわれる強豪だった。
1956年のワールドシリーズに出場したヤンキースの対戦相手はブルックリンを地元にするドジャース。同じニューヨーク市内であるため地下鉄で互いの球場を行き来できる「サブウェイシリーズ」となったこの年は、1・2戦はブルックリンの球場でドジャースが連勝する。ブロンクスのヤンキースタジアムに移ると3・4戦はヤンキースが連勝。
王手がかかった5戦、誰に先発投手を任せるか悩んだステンゲル監督は、練習で一番良いボールを投げた投手を指名することにした。そこでよかったのがラーセンだった。
2戦目で敗戦投手になったラーセンは「大記録は試合中に口に出すと達成できない」というジンクスがあるにもかかわらず、試合前からチームメイトに「完全試合を狙ってみるよ」と言い放つ。
試合はヤンキースが順調に得点を重ねて、ラーセンも一人の走者を出さない投球で最後の打者を迎えた。最後の一球をその試合で審判を引退するベイブ・ピネリ主審が「ストライク」と判定し、宣言通りの完全試合を達成。キャッチャーが優勝したかのようにラーセンに抱き着いた。
ヤンキースは7戦目でワールドチャンピオンに輝き、ラーセンはシリーズMVPを獲得する。
しかし、その後のラーセンは目立った活躍は出来ずに他球団で引退するが、一日だけの全盛期が「ワールドシリーズ史上唯一の完全試合」として永遠に語り継がれている。
2020年の1月1日、記録達成時の出場選手では最後の生存者だったが、食道がんで亡くなる。
「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」
おとなしい国民性をもつ日本人からみるとアメリカ人は、「良くも悪くも自分の気持ちをそのまま表現する国民性」と感じるだろう。
現代のメジャーリーグでも喜怒哀楽を全面に出してプレーする選手は多いが、かつて「最高の技術と最低の人格」と評価された選手がいた。
タイ・カッブは厳格な家庭の長男として生まれる。家柄はイギリス貴族の血を受け継ぐ名家であり、初代アメリカ大統領のワシントンも姻戚関係にあったとされる。特に教育者であり、上院議員も務めていた父親からのしつけは厳しく、また、周囲から特別な目で見られていたことに対する反発心から父親と同じ職には就かないことを決めていた。
14歳から野球に興味を持ち始めると、将来を心配された父親から「常に正義をふまえ、正直に謙虚にふるまえ」と教え込まれる。
17歳の時にプロ球団からの評価に悩んでいると父親から「決めたからには、失敗しても帰ってくるな」と言われる。なんとしても成功するため、地元の新聞に匿名で自己プロデュースの投書を大量に送り、知名度を大幅に上げてプロ入り、マイナーで頭角を現すと、デトロイト・タイガースでメジャーデビューが決まる。
しかしこの数日前に父ウイリアムが母アマンダからライフルで撃たれ、亡くなってしまう。理由はアマンダの浮気が原因だったが、アマンダは無罪になる。
この一件でカッブは父からの教えを改め、自分の意思に正直になることを決意し、当時恒例だった新人歓迎のいたずら受けて暴力沙汰を起こしたり、両腕の不自由な観客からひどい野次を受けて逆上し、その観客を殴り続けるなど悪行が絶えなくなる。
やがて、自分のプレーを邪魔されないように、スパイクの刃を尖らせてスライディングの際に相手にケガを負わせるよう威嚇したり、黒人扱いをしてきた選手には試合後、銃を突き付けて脅すなどその恐ろしさは対戦相手にも向けられた。
しかし、選手としての実力は確かであり、特に打撃においては史上初の4000本安打を達成し、12回の首位打者獲得や史上最高の通算打率3割6分7厘、シーズン打率4割2分などのメジャー記録を100年近く保持する名打者であった。
また、投資家としても敏腕であり、コカ・コーラ社の株で大儲けし、1000万ドル以上の資産を築いたといわれる。それでも私生活はかなりケチであり、家政婦の給料は値切り、水道料金などの支払いも断り続け、さらには電気代節約のため発電機を自ら作って故障させている。
1936年に圧倒的な得票率で第一号のアメリカ野球殿堂入りを果たしたが、今でも彼の評価は「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」である。
隻腕の大投手
スポーツをするうえで体の健康は良好であるべきだ。しかし、世の中にはケガや病気、そして、生まれつきの障害で思い通りにいかない人生を歩まなければならない人もいる。
ジム・アボットは、ある一点だけを除けば、野球にのめり込むごく普通の少年だった。本格的に野球を始める彼は投手として優秀だが大きな壁に直面する。それが彼の右腕だ。彼は「先天性右手欠損」という生まれつき右手首から先が無いという障害があったのだ。
相手にとっては狙い目に最適で彼に向かって狙い打ちを行う。
片腕のみで急いで捕球と送球を繰り出すことがとても難しいことはだれでも理解できるものだ。普通であれば野球を辞めたくなる出来事を彼は前向きに考え、練習に取り組む。
そこで父が思い切った投法を考案した。
①右投げ用のグラブを右手に乗せる
②左手で投球直後に素早くグラブを左手にはめる
③グラブで捕球し、右脇でグラブごと外して左手でボールだけを抜き取り送球する
つまり、左手だけで投球、捕球、送球を行うというもの。
「アボット・スイッチ」と名付けられたこの投法に猛練習を重ねたアボットの守備は平均以上の数値を出すほどに成長し、高校、大学で活躍、オリンピックにも出場。決勝戦は、後にプロ入りする選手が半数以上を占めるドリームチームの日本を相手に完投で抑え、金メダルを獲得する。
メジャーリーガーになるとアボット・スイッチを駆使して新人王や2桁勝利など、誰もが認めるメジャーリーガーとして結果を残し、1993年にはノーヒットノーランを達成。「史上最も価値のあるノーヒットノーラン」といわれるほどの快挙にアメリカ中が沸き立つ。
1999年に惜しまれながらも引退。
自身の腕の障害について「体が大きい、小さいのと同じような個性であり、障害だと思ったことはない」として努力をすれば補えると考えており、メジャーリーガーになれたことにもあまり驚かなかったという。
またアボット・スイッチの考案者である父について「自分に野球を教えようとして庭に連れ出した勇気のある人間だ」と答えている。
劣等感を感じずに前向きに努力を続ける彼は今でも障害を持つ人々の英雄であり続けている。